至高なる全て

永遠なるものを探して、太古の時代から、今世の流れの中で一体性を未来の懸け橋となる。

感想や意見や質問に可能な限り質問にブログを介して答えます。未熟である研究者で、土台を修正するために考えを探求して自由に対話を通じて進化させます。「ワンネス「一体性」を全体性に統合し善悪双方に傾かない固定概念を作り、善悪を超越して、内包する。中立で優劣のない平等で平和を目指し,過ちもありますが、敵も味方も慈悲と愛で一つにまとまり、絆を作りたい。それが全体性の統合で偏らない柔軟な一体性の側面になり、その源は善で許容で心を癒す事が使命である。」これが私のミッションステートメント「目的声明文」です。

「イエス・キリスト」個人は≪愛≫純粋な意識に繋がった者。

善悪の固定概念を超越して中立で分離のない全体性を統合したワンネス一体性が人格者。
覚者である「イエス・キリスト」個人は≪愛≫純粋な意識に繋がった者が、この世界に、本質的に「存在そのもの」≪真・善・美≫になり、神の世界で「大いなる自己」≪悟る≫

平和は満たされた者が体験できると説き、喜びは完成された達成いされたときに出る気持である。


愛は恩恵がないと実現できません。


慈悲深さは、受容を忘れないことが、大切です。


これらすべて良心の意義の為に使ってください。



我々は、「源」とともに在り、神と一体である、離れ離れでない、繋がった聖霊が神との仲介者「正しい心」である「善」である≪神在り≫が実在です。


現実この世界は二元的な世界です。
私もストーリーである二元性は惹かれます。煩悩の凡夫です。
または、映画や漫画、小説、ゲームなど趣味や娯楽は多面的ですが、仕事ビジネスでの競争などは好きではありませんが、人間関係や家族人脈や友人関係、身体であるスポーツ「健康と活力」も未発達。お金である富、知性や知識、煩悩、思考「マインド」は本当に煩悩だらけです。


自分とつながる、心と精神性「マインド」アイデンティティ「自分らしさ」自我である「エゴ」を持つ身体は知覚し儚き、永遠ではない世界で般若心経でいわば無常、五蘊、目的を持った中立の意味のない、現象と事象の幻想の夢の因果を持った、非実在である世界です。



ですが。それは、空虚ではなく決して虚無でもなく、霊的な一体性が備わった全体的に統合した現実の超実体である。


真実の世界は霊的世界が神の作った実在世界で「大いなるすべて」と呼ばれ、実相≪アカシャ≫ 天国 ニルバーナ(涅槃)源は永遠性、普遍性、絶対性で儚き現象事象自我世界は、物質宇宙と共存し、統合し、全体性の一体性である、意識の振動数が進化した「共同体宇宙意識」はそうである。


目的を持った幻想の夢の因果を持った、非実在である世界を兼ね備えた存在で一体性であり身体は幻想だが体と霊は統合した全体性の一体性の霊であり魂である存在が価値のある失わない。


死は存在しません。神の子は自由です。

肉体は目的を持った幻想であり、全ては現象と事象の世界なのだ。


自分自身と身体だけ「骨肉の体」を実在とし、同一視するなら、豊かさではなく、足りない世界に生きることなります。


正邪 善と悪を放棄し固定概念を無くし、全体性に生き過ちを修正し、付け加え、更新し、超越し、意識的に目覚めて成長する。


神との分離は実在に見えても、目的かなった幻想で、自分が神との繋がりを正しい心「聖霊」良心(光)を忘れている。


神と一体であるものは、「愛の表現」良心(光)である霊的な、聖霊共にある


神との分離は非実在で、罪、罪悪、罪悪感、恐れ、対立、悲しみ、プライドは全て「愛を求む呼び越え」で、善と悪二元的なものは、ただ、うまくいくこと「為になること」とうまくいかないこと「為にならないこと」 があるだけだ。


「目的を持った幻想で恐れで原罪、罪、罪悪感は非実在なるもの」


罪と過ちを混同してはいけない、過ちは、目的を持った因果の幻想で「自己成敗」であり、一生をかけて自分を思い出し、知って自分の源「神」を知ること、自分で在る。


二元的な性質を持った承認欲求を与えて、課題与え、「褒美」賞と、「罰」神からの裁きである追放や排除で「陰、自我「エゴ」ある独善、偽りの神」で、「全体性を統合した一体性の神は、承認欲求を与えず、自分で気づかせ、勇気づけたり、聖霊により、共時性や道を示したりする。


自分で課題を与える、100%自分が責任で主体性が問われて、目覚めた者が成長への近道です。



自律志向で、選択の自由意思だが怠けたり、過ちを犯していたら、成長せず、因果の夢を繰り返し、非実在性から目覚めないでしょう。



原罪と罪、心に抱えてる罪悪感は、絶対悪(影と影)は真っ暗過ぎて、陰極である自我である「エゴ」悪魔は実在しない幻想で、非実在。


「助けとなるのは神と私は一体である、目的に叶った「良心」の必要性」
仲介者である、霊的な聖霊である神の道しるべを必要とする。汝自身を知り、汝自身で在り、人格者であることが為される。
あ、真っ暗なら光である電気か火があれば大丈夫か。
それが神が道を示した聖霊の力か?


「目的を持った幻想で実体のある≪エゴ≫でその中に優越、自分本位、体裁、劣等感の良心に反した自己欺瞞は二元的な非実在のもの」


絶対善は(陽と陽)は眩しすぎる光で独善となり、自分本位な優越はルシファー的にエゴになり、破壊的、まさに「核」戦争みたいな悲惨な現実が、

幻想で非実在あると、起こった過ちの悲劇の事実を忘れてはならない野で、心の傷や因果目的の夢ではあるが、ちょっとやそっとじゃ癒えることはない、修正し「パラダイム」視点を変えていこう。


偽りの二元的な「陰、闇の勢力」は、一見、良心的な、善の一面を情報操作され、メディアや、tv、ユーチューブ、映画にして、新聞、マスコミに、操られてる。


「正気」誠実さ、倫理、正義、教会、書物、ドグマ、儀式、伝統をし、平凡な人物や、名家の人をメシアや覚者、預言者にし、権威者、有名人、など偶像視して革新的側面も、再生されたと主張、ユートピアが実現したら、悪人は排除してでも、独善的な「狂気」自分の側が真理で、優れていると主張、自分本位で権威的で賞罰主義、承認欲求、条件付きの愛、課題を果たせなかったら、「いと小さき者を」罰、「裁き」を二面性の「偽りの神」は(陽と陽)は眩しすぎる光で優越と独善となり、自分本位なルシファー的自我「エゴ」になり、それらは罪ではなく過ちであり、現実的で実存「本当の神、大いなる存在」かけ離れ、神と分離して、繋がってはいるものの忘れて分離している。



だが非実在な独善的な自我「エゴ」であり、見分けの区別は,「愛の表現」良心(光)である霊的な、神である、「源」の良心に反し、反逆した自己欺瞞である、その我々は、神「源」の良心に反し、反逆した自己欺瞞から目覚め、内からでるのである。
神と聖霊と共にあり、自分の良心に従う。
実存の概念が、「本当の神、天使、光の勢力、大いなる存在」の見分けの仕方がある。
刺激と反応の間には大きなスペースがあり、そこにあなたの中立な選択の自由がある。陰陽とある。


隠的な者は、フォースである、ネガティブな本当でない自我≪エゴ≫
個人や集団、身近な家族、仲間など友人やビジネス、人間関係である、グループ、何かの団体や、政治、党、教育である学校、医療、代替医療、福祉施設、研究所、刑務所、占い、カルト、宗教団体 、近頃、パソコンや、タブレット、スマートフォンが普及して、共同体の意識状態は「機能性」が発展し、近年、知的情報社会になり、さらに意識の振動数が進化した半霊半物質の霊的な「共同体宇宙意識」がいつの日か到来しする。
「適応性が広がり」個を尊重し、平等であり誠実で、慈悲のあり、正しい心の「光」良心のある、改善が可能な「正義」の独善ない支配のない、権威社会ではない、承認欲求の賞「ほうび」条件付きの愛、罰「裁き」を与えず、良心である慈悲「心を癒す」のである、それが過ちの修正で更生ある。赦すのである。


別に、悪人を野放しにするんじゃない、過ちを認め、「悔い改め」て修正と償いの救済の措置を与え、「いと小さき者は皆、愛を求む呼び越え」であり罪、罪悪、罪悪感、恐れ、対立、悲しみ、プライドは全て、修正、改善して、私たちは世界をあるがままに見ているのではなく、私たちのあるがままに世界を見ていて、事象を自分が見たいように見ていながら、すべての問題は自分の中に有り自分が変わらなければ周囲も変わらなくて、自分を知って心と行いを正し、汝自身で在り、「自分で在る」良心を忘れずに、自分を知って善悪の固定概念に縛られず、全体性を保ち良心、聖霊である「正しい心」仲介者、神と一体となった、一体性を知ることそれが実在であり、霊的に繋がった霊性である。


実存「霊的なもの神」と本質である行為、「ストーリー」が全体性のとれた時、良心は、今この瞬間こそが奇跡であり、その奇跡に難易度はないのである。


以前「あ、真っ暗なら光である電気か火があれば大丈夫か。」モノや所有や道しるべが小さな奇跡、であるなら、神や、とっくに意識の振動数が進化した覚者、「イエス・キリスト」個人は、私たちと同じ人間であり平等な神の子で神と一体であった。
聖書である、偶像崇拝を禁じたのも、イエス、宗教の教祖にもユダヤの王になりたくなかったのも、権威という、二元性、条件付きの愛を実在視したくなかった。


皆が平等で進むスタートが違うだけで「源」である「神」前世、天国の記憶、良心、正しい心「聖霊」を思い出し、目覚めることが成長への最短ルートで、そこに優劣はありません。


無神論「不可知論者」であっても、神を信じていながら、組織や宗教に属していなくても、虚無主義者であっても、みな私たちは一体である。


モノ「者」の見方考え方「パラダイム」を変えるのである。
「蒔いた種は自分で刈り取る」共同体社会が、勇気付けをし、自愛をもって信頼のある、自分に希望を持たせ、受容と最後に許容を与え罪を犯した、意識の成長は「一歩下がって二歩戻る」で相互依存「お互いに人々を助け合うことができた」や「自己への奉仕」後の成長は、選択の自由意志で意識の振動数が進化を上げることは平和で健康で幸せになる愛や目覚めです。


進化した「共同体宇宙意識」は.皆がそうなってることをやみません。


強制、管理、抑止力、権力、権威的な、
権威的でない、虚無的な者。二面性を被った者。一側面しか見ない執着する者。


罪、罪悪、は優越、自分本位な体裁、劣等感の良心に反した自己欺瞞独善の自我「エゴ」がいま現実にあるが、過ちであり神と聖霊に心を癒し。
原罪である、初めから罪は存在しなかった。


赦して投影された自我「影」罪である悪人は存在しません。


繰り返し言わせてもらいますが、罪と過ちを混同してはいけない、過ちは、目的を持った因果の幻想で「自己成敗」一生をかけて自分を思い出し、知って自分の源「神」を知ること、自分で在る。
幻想で夢で非実在の例えであるが、曇って見えないレンズやキズを元どうりにするのです。一生かかつてでも消せない、過ちや、現実、キズ、失った者である過ちを犯した者は、一生かけて取り組まない被害を被った者とと因果は、目的を持ち、幻想で夢で非実在、で現実世界でも聖霊とともに繋がりを保ってる。
「神と霊的な聖霊とが繋がり実在」
勇気、中立,意欲,受容,理性,愛,喜び、平和、悟りこれは実在の意識の振動指数を言語化したものである。


「幻想で夢である非実在」
恥、罪悪、無感動、悲しみ、恐怖、欲望、怒りプライドは過ちとして自己成敗と因果の法則で幻想続く。


「闇の勢力、個人の性質とは」


幻想である夢である、非実在の「狂気」二元的な性質、エゴで、偽りの正気である、正気の方は、全てに悪があるのではあるのではなく、善悪分別のない、誠実でない光の良心がある。皆、情報操作で洗脳されてる。


同胞に必要性、偽りの世界の存続。条件付きの愛で課題を与え、承認欲求で、必要とされたり、果たした者と果たさなかったった者を、賞罰「飴と鞭」褒美をやったっり裁いたりてる。
「自分は正しくて相手は間違ってる」自分本位な考え独善的な自分本位で、優越的で権力、権威的自我≪エゴ≫が、誠実でない気まぐれな、非実在である真の望みとは、虚無「二元の独善、いと小さきものを排除する」「一元の陰極で独善、全体性のない、一つに偏った思考体」停滞、混沌、支配、破壊、は宇宙の現象である事象自我である物質は幻想である夢の非実在。


「狂気」で、誠実でないので、分離的で、善悪二元主義を、徹底し課題が存在し、何故ならばそれは部分的に善と悪の側面を見てしまったならば、うまくいかないし自我エゴ「悪魔」的になるだろう。善と悪 正邪は分割できないひとつの存在である。
絶対善「独善」だけだと実在しない悪「過ち」を排除してしまいその独善が狂気であり偽りの善「眩しすぎる光」が抑止力の「核」みたいなエゴ「悪魔」になってしまう。だがその悪魔≪独善≫「自分は正しくて相手は間違ってる」は幻想で非実在ある。
世界の不幸、悪心、理不尽は神の創ったものでなく、エゴに囚われた心(無意識の恐怖)が意識のスクリーンに投影した幻影であり、現実(愛)には存在しない狂気である。


「現実でないものに裁きの感情を抱けば、幻影の狂気から回復できなくなるから赦すのである。」
作者不詳

キリストのヨーガ―解脱の真理 完結編 (スピリチュアルシリーズ)
キリストのヨーガ―解脱の真理 完結編 (スピリチュアルシリーズ)
出帆

こういう話がある。イエスが「汝サタンよ、我が後に退がれ」と一喝したときのように、意識的に(その正体に)気づかなければならないのは、今度は私の番だったのである。サタンとはエゴ「自我」のことであって、外部にある何らかの神学上の造りものではなく、いつも前にでしゃばり出ようとする自我のことであったのである。もしも人が自我の中をのぞいてみるのなら。もしも人が意識するのならばいつも前にでしゃばりたがるのはエゴ自我であることに気付くであろう。しかしそのエゴ自我を徹見した時に、自我よりの解脱「悟り」が来るのであって、その前ではない。「汝サタンよ、我が後に退がれ」とは、言い換えれば、自分は無ゼロ(聖霊)である。父なる神のみが実在である、わたし達は神(の一部)であり、自我エゴは幻想である。ということ叱り自我は欺く分子である。事実に、もはや一点の疑いもない。
著書「「キリストにのヨーガ」より


「善悪の固定観念を信じるとゆうことは、どうしても判断ジャッチしている事になる。ここでいう判断とは善悪の決めつけです。何も決めないということではなく、善いとか、悪いとかの評価をしないということです。物事はただ起こっているだけで、それ自体には意味がなく、意味をつけているのは私たちです。人生には意味がないのです。要するに言えば中立であり、意味のない、現象に過ぎないのです。それで、自由意志が生まれます。」


 著書霊的心理学の「ACIMテキスト」より
「《エゴ》悪(罪)が実在すると信じたい誘惑にいかられるときには、次のことを覚えておきなさい。もし《エゴ》罪(罪)が実在するなら、神はあなたもどちらも実在しないことになる。創造とは延長することであるのなら、創造主はご自身を延期したはずであり、創造主の一部が他の部分と全面的に異質だということはあり得ない。もし悪(罪)が実在するなら、神はご自身と交戦状態にあるということにならざるを得ない。そして神は分裂していて善と悪の間で引き裂かれ、部分的に正気で部分的に狂気だということになる。なぜなら、神を破壊しようと意志してそれを実行する力をもったものを、神が創造したに違いないということになるからである。宇宙にはいかなる分離も存在しません。無償の愛以外のものは、全て、幻想です。」

奇跡講座 テキスト編
奇跡講座 テキスト編
中央アート出版社
×

非ログインユーザーとして返信する